東上沿線 車窓風景移り変わり 第30号
No.34 「鶴瀬駅之碑」(2002/8/4 記)
東上線には鉄道敷設や駅の開業に伴う記念碑がいくつか残されています。しかし、これらは残念ながら現状ではあまり優遇されていないといってよいでしょう。駅の拡張や改良に伴い移動しているものがほとんどですし、中には当初の位置から遠く離れた場所に移されてしまったものもあります。駅構内の限られた敷地の中で少しでも土地を有効利用したいのは当然でしょうが、もう少し何とかならないかなと思う場合が少なくありません。
ホームから見た「鶴瀬駅之碑」背面
こちら側にも何か刻まれているようだが気になるところではある。
「鶴瀬駅之碑」全体
駐輪場から撮影したもの。ご覧の通りの場所に立っている。
さて、今回ご紹介する鶴瀬駅構内にある「鶴瀬駅之碑」も、かなり厳しい条件の所に立っています。鶴瀬の旧駅舎のあった場所は現在バスの折り返し場となっていますが、そこに隣接する富士見市駐輪場裏手の線路敷地内の端っこに、ぽつんと「鶴瀬駅之碑」は立っています。上り電車からはその背中が見ることができます。碑文のある正面と線路脇の柵とはほんの数10センチメートル離れているだけです。さらに柵の後ろはすぐに駐輪場の壁で、撮影するにもまったく引きがありません。おかげで、柵と駐輪場の間のすき間に入り込んで碑の前に行くと、碑文を間近で眺めることができますが。
この「鶴瀬駅之碑」は大正3年5月下澣(下澣=下旬と同じ)という日付があります。駅開業が5月1日ですから、開業後しばらくして建てられたことがわかります。碑文中に「大正三年五月一日汽車通焉此日天晴気朗弥望千里朝来見長蛇之吐煙蜿蜒老若歓呼実為空前之盛事」と開業日の様子が描かれているのはこのためです。ここでその全文を紹介しましょう。漢文ということで、ところどころにかなりむつかしい字や用語を使っています。私なりに現代語に訳してみました。
碑文(全文) 碑文の現代語訳
鶴瀬駅之碑
東上鉄道社長勲四等根津嘉一郎纂額

通信之便交通之利相須而産業興焉民力振焉今也郵電之設普於都鄙鉄道

之備亦将及於僻陬当此時地方之盛衰一在利用之如何矣入間郡鶴瀬村有

志横田源九郎氏等有観於此及東上鉄道創設為機不可逸胥謀醵金以建設

停車場於本村地占中武之要当物貸集散之衝大正三年五月一日汽車通焉

此日天晴気朗弥望千里朝来見長蛇之吐煙蜿蜒老若歓呼実為空前之盛事

爾今洵善利用軌路不啻本村発展之為又足以振興中武之産業果然則諸子

斡旋之労亦以為不空焉矣郷之先輩星野仙蔵君竭力鉄道敷設終始一貫本

駅之成君与有力焉君一日斉有志之意来求予文予与君有旧誼不可辞乃敢

援筆銘曰

郵電通信 遐邇転瞬 鉄路運輸 有無相賑

坦々武陽 地饒人儁 汽輪一過 産殖業振

大正三年五月下澣

埼玉県立川越中学校嘱託岡本定撰

埼玉県立川越中学校教諭竹内鹿女太郎書

            小池銀次郎鐫

▲ 「鶴瀬駅之碑」題字
▲ 「鶴瀬駅之碑」碑文

通信の便と交通の利があいまって産業は興こり、民の力は盛んになる。今、郵便や電信の設備は、都市や農村に普及し、鉄道の設備は僻地にも及ぼうとしている。まさしくこのような時にあたり、地方の盛衰はこれを利用するかどうかにかかっている。入間郡鶴瀬村の有志横田源九郎氏らは東上鉄道創設を迎えてこの機を逸すべからずと、資金を持ち寄って停車場を建設した。本村は武蔵国の中央部に位置することからも、まさに物資や貨物の集散の要地とすべきである。大正三年五月一日、汽車が開通し、この日、空は晴れ、空気は澄みわたり、いよいよ千里をのぞまんとしている。朝から、汽車が長蛇のような煙を延々と吐くのを見る。老いも若きも歓呼し実に空前の出来事である。今からは、みな鉄道を利用し、ただ本村発展のためだけでなく、武蔵国中央部の産業の振興を目指して欲しい。そうすれば、鉄道開通の斡旋に力を尽くした苦労も空しいものではなかったことになる。郷土の先輩、星野仙蔵君はこの鉄道の敷設に力を尽くし、終始一貫して鶴瀬駅創設のために君と力をあわせてきた。君は駅設置に力を尽くした有志の意を代表して、来たりて私に一筆を求めてこられた。私と君とは古い友情で結ばれている。断ることなど出来ようか。ここに敢えて筆をとって以下のような漢詩に託していわく、

(漢詩)

郵便や電信は遠くと近くをまたたく間に結び、鉄道輸送はどんな場所も賑やかにしてくれる。

広大な関東平野は地味が豊で人は優れているので、ひとたび汽車が通過することにより産業は成長し事業は賑わう。

文中の横田源九郎は当時の鶴瀬村長で鶴瀬駅開業の中心人物。また星野仙蔵は福岡村の回漕問屋福田屋の主人で東上鉄道開業のために尽力した沿線側の代表的な人物です。(東上沿線 車窓風景移り変わり 第17号「No.20上福岡-無線塔の思い出と東上鉄道敷設功労者ゆかりの地」参照)碑文後半でこの文章を起草した東上鉄道社長の根津嘉一郎が「君」といっているのは横田源九郎のことでしょう。横田は鶴瀬駅開業のため資金を1500円(当時の金額で)を集めています。碑文の中で「謀醵金以建設停車場」とあるのはそのことです。しかし当初予定していたよりも多くの土地が必要となってしまいましたが、横田らには1500円以上の資金を調達することが不可能となり、星野仙蔵に「なんとか1500円でまとめてくれ」と、東上鉄道側との交渉を依頼しています。碑文中で「星野仙蔵君竭力鉄道敷設終始一貫本駅之成君与有力焉」とある一文はそのへんを考慮して根津嘉一郎が敢えて星野の名を入れたものでしょう。
文章は根津嘉一郎が原文を起草し、埼玉県立川越中学校(現在の川越高等学校)嘱託の岡本定という人が漢文に整え、同じく川越中学校竹内鹿女太郎(たけうちかめたろう)が筆書したものを、小池銀次郎という石工が碑文に彫り込んだものです。ただし「小池銀次郎鐫」と富士見市史にある部分は石碑では確認できませんでした。おそら現状では見ることのできない石碑裏側に掘られているものと思われます。電車内から見る石碑裏面には、石碑建立の関係者の名前などが刻まれているようにも見えますが、さすがに車内からは確認できません。
鶴瀬駅碑のような記念碑は東上沿線にも何か所か残っています。東上線も開業80年を経過しました。こうした石碑は近代産業勃興の重要な資料であり、また地域の開発を願った先人の業績を語る文字通りの記念碑でもあります。所有者には諸般の事情があるとは思いますが、保存のための措置をいささかなりとも考慮いただければと思う次第です。
また碑文の例として「東上沿線 車窓風景移り変わり」第18号 No.21「川越町駅碑々文」と六軒町駅についてもあわせてご覧下さい。
■参考資料
富士見市史・資料編 5:昭和63年富士見市教育委員会発行
富士見市史・通史編下巻:昭和63年富士見市教育委員会発行
大井町史・通史編下巻:昭和63年大井町発行
酒井智晴著「東上鉄道の敷設と地域の対応~入間郡福岡村星野仙蔵を中心として~」(埼玉県史研究第34号):平成11年3月18日発行
※ 掲載の碑文は「富士見市史資料編 5」に掲載されているものをもとに、現地で確認し正誤をただしたうえで掲載しました。旧漢字は新字体にあらためてあります。また現代語訳は本ページ主宰者の解釈によるものですので、見当はずれの解釈などあるかも知れませんのであらかじめご了承を。お気づきの点などございましたらぜひご一報を願います。
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