東上沿線 車窓風景移り変わり 第29号
No.33 武蔵嵐山~東松山間旧線路跡をたどるオフ会報告-その2(2002/6/16 記)
平成12年(2002)4月14日の日曜日のオフ会続報です。今回は全行程の内、旧飛行場さき(写真-17)から東松山分岐点までをご紹介します。当日寄り道した「つきのわ駅付近」は項をあらためてご報告します。
※:各図の丸付き数字は写真の番号を示しています。 拡大図D
工業団地の中はもちろん線路跡は完全消滅しています。線路跡が再び顔を出すのは上の地図で森林公園駅の南方で旧線路のルートが点線から実線に変わるあたりです。左の拡大図は再び出現した旧線路跡の道路をしばらく東に進み、県道深谷~東松山線(関越自動車道の東松山インターへつながる幹線道路)と交わるあたりです。このあたりは東西に伸びる線路跡の道路が一瞬途切れるところですが、地割りに線路の敷地が反映されています。この一帯も県道深谷~東松山線が開通する以前は雑木林に覆われたまったくの農村地帯だったのですが、森林公園駅開業と関越道の開通ですっかり変わってしまいました。(写真22-24の撮影地点は上の全体図参照)
写真-17 写真-18
飛行場跡の北東部に再びあらわれた線路跡を利用した道路を東から見る。高校生の頃(昭和42年頃)体育の授業でこの辺まで走ってきたことがあったが、畑と雑木林ばかりのうらさびしい農村地帯だったが。右の駐車場は線路跡より少し低くなっている。 県道沿いのコンビニから横断歩道をはさんで東方向を望む。横断歩道や正面の建物の敷地がかつての線路に相当する部分。
写真-19 写真-20
写真-18に写っている建物の東裏にある、東武の宅地分譲地。細長い1区画だけの分譲で、これがかつての線路跡の土地であることは一目瞭然。看板の向こうには線路跡の道路が東松山に向かって延びているのがわかる。 19の写真とほぼ同じ位置から線路跡の道路を望む。ここから先はしばらく家並みが途切れ雑木林が両側に展開する。
写真-21 写真-22
東武の敷地を示す境界の杭が再び姿を見せる。私有地でありながら公共の道路として使われている。固定資産税での優遇措置があるらしいが。 よく鉄道線路の脇にこの季節になると咲いているショカッサイの薄紫の花が、線路跡の道路両側に咲いている。
写真-23 写真-24
林の中を西に延びる旧線路跡。この付近は両端が森になっていて、何となく雰囲気がよい。CGで線路を合成してみたくなる。 このあたりで市街化調整地域が終わり、一転して住宅地となる。カーブの先には現在の線路が左から接近してくる。
※:各図の丸付き数字は写真の番号を示しています。 拡大図E
旧線路と現線路の分岐点に近づいてきました。このあたりも急速に市街地かが進んできています。戦時中線路移設工事が行われた頃は、もちろんこのあたりは家は一件もなく見渡す限りの畑でした。宅地のほうが畑より多くなったのはこの10年くらいのことではないでしょうか。
写真-25 写真-26
写真24からさらに東に寄ったところ。武州松山を出た東上線はここから西に向けて5kmの直線に入る。 旧線路と現線路の分岐点を西から見る。
写真-27 写真-28
旧線路(左)・現線路(右)の分岐点を東から見る。現在は複線になっているが、もちろん当時は単線。 旧線路・現線路分岐点を線路の東側から見る。線路沿いの柵が微妙なふくらみを帯びている。そのふくらみのカーブを追うと旧線路へとつながる?
こうして全行程を無事踏破。少し速めに終わったので、焼鳥屋が開く時間まで箭弓神社に参詣しました。この暑さで牡丹も藤も満開でした。牡丹祭までに牡丹もしおれてしまうのではないでしょうか。社殿の見事な彫刻を眺めてから駅方面に向かいました。ようやくたどり着いて適当な焼鳥屋に飛び込みまずはビールで乾杯。その後、お目当ての味噌ダレの焼き豚を楽しみました。私は永年の間、隣町に住んでいながら名物の焼き鳥を食べるのはこれが初めてでした。いやー、おいしかったです。たっぷり歩いた後なので、酔いの回りも早かったようでした。
というわけで春の一日を、たっぷりと旧線路の跡を探ることができました。また時をあらためて、東上線の過去の遺跡を探るオフ会を開催したいと思います。
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