東上沿線 車窓風景移り変わり 第28号
No.32 武蔵嵐山~東松山間旧線路跡をたどるオフ会報告-その1(2002/4/30 記)
平成14年(2002)4月14日の日曜日。久々のオフ会を実施いたしました。コースは武蔵嵐山駅をスタートして、戦時中の唐子飛行場建設のため廃止となった東上線旧線路を歩く旅です。今年の春は異常といってよい暑さでしたが、幸いオフ会当日は、それほどの暑さでもなく、また日差しもそれほど強烈でもなく、平年並みの春の一日といった陽気でした。今回の参加者は「サヤ8001」さんと「小川待ち」さんそしてこのページの主宰者の計3名でした。
今回は全行程の内、旧飛行場までの部分(写真-16)までをご紹介します。引き続き飛行場跡から東松山方面を「報告-その2」としてアップしますので、もうしばらくお待ち下さい。
当日は午前11時武蔵嵐山駅集合。主宰者は川越駅を時分の急行「武蔵嵐山行き」という昔では考えられなかった行き先の電車に乗車。川越のホームで「サヤ8001」さんと一緒になり、武蔵嵐山まで景色を見て世間話をしながら武蔵嵐山まで同行。嵐山の駅では昔の癖が抜けず左側のドアに立ってしまいます。朝霞台駅で急病人発生とやらで川越駅を6分遅れで発車していましたが、嵐山では3分程度の遅れに回復していました。新装の武蔵嵐山駅ということで何となくきょろきょろしながら階段を上り、改札口で上り列車で先に到着していた「小川待ち」さんと合流。さっそく出発しました。南口に下りて旧駅舎を眺め、あまり人気(ひとけ)のない駅前通を横目に見て、つきのわ駅方向に歩きだします。つきのわ駅方向最初の踏切をわたり、線路反対方向の道をしばらく行って、かつての横田眼科医院(写真-1)のある踏切で左に向かいます。
《東上沿線 車窓風景移り変わり第6号 No.9 唐子飛行場の建設と線路の移動 も合わせてご覧下さい》
※:各図の丸付き数字は写真の番号を示しています。 拡大図A
旧横田眼医者の踏切を過ぎ間もなく右に入る路地に折れて、民家の中の小径を曲ながら行くと再び東上線の線路に行き当たります。ここは踏切だった所ですが、今は地下道で横断になっています。このあたりが、現在の線路と旧線路の分岐点だったところです。この分岐点は、私が20年以上前武蔵嵐山に住んでいたころは、まだ旧線路との分岐箇所がはっきり分かったものです。あのあたりは線路が築堤上を走っており、旧線路の築堤が電車からも確認できました。現在は宅地造成で高低一様にならされてしまい分岐点の様子はすっかり失われてしまいました。線路の周囲も一面の雑木林でしたが、今はすぐそばまで宅地が押し寄せています。分岐点付近はまだ更地ですが、造成工事は完了しておりいつ家ができてもおかしくない状況です。分岐点付近の旧状は失われてしまいましたが、少し行くと旧線路敷を利用した道が現れます。拡大図Aの写真番号3あたりからです。道の両側には「東武鉄道」と刻まれたコンクリート製の土地境界標識の杭(写真-4)が打ち込まれています。現在でも、この道路は東武鉄道の所有地のようです。左右は雑木林でいかにも旧線路跡という雰囲気です。この先をしばらく行くと旧線路は左に緩やかにカーブ(写真-6)を描いており、東松山ミニゴルフクラブの跡地に出ます。その先でバイパスの工事現場にぶつかり旧線路は途切れます。
写真-1 写真-2
武蔵嵐山駅から上り方向二つ目の踏切から嵐山駅方向を見る。右の建物は旧横田眼医。私も幼いころお世話になった。いかにもお医者さんといった風情のある建物である。築50年くらいたっているのでは。 分岐点付近とおぼしきところから旧線路の方向を望む。分岐点付近は宅地造成が進行中。左の四角い構造物は複線化であらたに造られた地下通路。画面中央奥が旧線路の跡になる。
写真-3 写真-4
2とは逆方向から分岐点方向を望む。このあたり旧線路は東松山方面からまっすぐに武蔵嵐山へ向かっていた。 旧線路脇にある東武鉄道の敷地を示す杭。このあたりの道路は東武の所有地なのだろう。この杭はこの先しばらく道路に沿って何本も見られる。
写真-5 写真-6
3の撮影位置からさらに旧線路に入った位置から望む。手前の道路が旧線路の敷地。まだこのあたりは昔ながらの雑木林で線路跡左には昔ながらの溜め池が埋もれかけて残っている。正面の宅地に家が建てばこの風景も過去のものに。 旧線路跡の道路をしばらく行くと緩やかに左カーブを描いている。カーブのかなたから電車が走ってきそうな幻想が…。
※:各図の丸付き数字は写真の番号を示しています。 拡大図B
写真-7はバイパス工事によってあらわれた旧線路跡の断面です。線路のバラストなどは当然、新線の方に運ばれてしまったでしょうから残っていません。しかし道路の基礎となる砂利の層の下には固くしまった赤土層が見えます。東上線の開通から昭和19年までの21年間、線路と列車によって固く締められたのではないでしょうか。
さて、バイパスに呑み込まれたかと思った旧線路は少し行くとバイパスの南に姿をあらわします。周囲の畑より少し高い築堤上を走っていた線路の跡がよく分かります。そしてさらに行くと旧線路の跡でももっとも往事を偲ぶことができる踏切跡に達します。写真の8-9-10をご覧下さい。築堤上の線路を越えるために、道路は線路脇で坂となって乗り越えていった様子がよく分かります。この踏切の東側もしばらく築堤の跡が残っていますが、その先でカーブしてきたバイパスに再び呑み込まれて、線路跡はしばらく姿を消します。
写真-7 写真-8
バイパスの工事現場の端に見える旧線路敷の断面。赤土の上に乗る砂利層は線路に関連するものではなく後の道路造成でしかれたものであろう。物資不足の戦時中のことなので、枕木はもちろんバラストに至るまで根こそぎ撤去してしまわれたと思われる。 バイパス工事で呑み込まれた旧線路だが、しばらく東に行くとバイパスの南側にひょっこり顔を出す。画面左側の畑より少し高くなっていて、いかにも線路の跡といった感じである。敷地には東武鉄道の札の付いた枕木のようなものがあるが、これはどうみても最近のもの。
写真-9 写真-10
奇跡的に残る踏切跡。画面左右を走るのが旧線路。農道が築堤上の線路をまたいでいたのだ。このあたり最も旧線路の面影を伝えている。ただしすぐ脇を工事中のバイパスが走っているので、この風景ももうすぐ見納めとなるだろう。 写真9の踏切跡を線路側から見る。画面右側に工事中のバイパスが見える。バイパスが緩く弧を描いて走り、線路は直線なので、弧と弦の関係で線路跡が残されているのである。
※:各図の丸付き数字は写真の番号を示しています。 拡大図C
バイパスに呑み込まれた東上線旧線路の跡は、バイパスを斜めに横切った地点、現在の自動車機器の工場の敷地前に細い道となってあらわれます。しばらく行くとその道は広くなりますが、なんの変哲もない道路なので、ちょっと見たところ鉄道線路の跡とは思えません。地図を見ると前後の道路のつながりから線路跡であることがはっきりします。このあたりはかつての武州松山~武蔵嵐山間の約4kmに及ぶ直線区間で、線路両側は雑木林が連続していました。江戸時代は菅谷・松山間で追い剥ぎ強盗が出たといいますが、たしかにかなりさびしいとことだったことは、明治初期の地図を見てもうかがえます。この先、写真13を写した地点の北側には大字月輪の一地区である大堀の集落がありました。今でも道路から大堀地区の農家がならんでいるのが見渡せます。この大堀地区に月輪の地名のもとになった大堀館跡が眠っていますが、これは項をあらためてご紹介しましょう。線路の周辺は工場が多くなってきますが、このあたりはまだ飛行場内ではありません。写真14の先が飛行場になります。飛行場直前で線路跡の道路が南東に折れ、かつてまっすぐ走っていた線路跡が一瞬だけこんもりとした林になって顔を出します。この先が飛行場の敷地(現在の工業団地)となって、線路の痕跡はまったく失われています。
写真-11 写真-12
左側が自動車機器の工場。この細い道路がかつての線路跡である。 写真11の地点をさらに東から逆方向にながめたもの。このあたりは少し道幅が拡がる。
写真-13 写真-14
月輪の大堀地区の南側で、旧線路跡を東から西に望む。このあたりは延々と直線線路が続いていたのであろう。画面最奥部に見える山は嵐山町の大平山。 旧飛行場跡の直前に三角状に旧線路の敷地が放置されている。ブッシュ状態で中に入る勇気はなかったが。この先は飛行場敷地である。
写真-15 写真-16
飛行場敷地(現在の工業団地)は線路跡はもちろん飛行場の痕跡もないので、しばらくルートから離れ、森林公園研修区の西端へ。休日の研修区には多くの車輌が体を休めていた。新旧スタイルの8000系車両をパチリ。 旧飛行場の北側出っ張り部にあたる一角の事務所敷地に建てられて都開拓地の石碑。飛行場跡に終戦後入植した大陸からの引揚者の開拓農村が、戦後の経済成長で工業団地として敷地を売却した経緯を記している。時代の変転を語る貴重な資料となるであろう。 
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