東上沿線 車窓風景移り変わり 第32号
No.36 朝霞テックの思い出(2003/5/5 記)
絶叫マシンを中心とした遊園地ブームもとっくに過ぎ去り、一部の勝ち組を除いてどこの遊園地も生き残りに必死のようです。首都圏の私鉄はたいてい沿線に遊園地の一つくらいは持っているのですが、わが道を行く東上線はそのような施設は皆無です。いずこの遊園地も存亡のときを迎えているのを見ると、ブームに乗らなかった判断は正しかったのかもしれませんが。
さて遊園地とは無縁の東上線もかつては、規模こそ大きくはないものの遊園地やレジャーランド施設があったことは以前にも触れたとおりです。そうした今はなき遊園地の代表格はなんといっても朝霞テックでしょう。
朝霞テックは本田技研系列のゴーカート主体の遊園地でした。今でも同系列の遊園地である多摩テックが東京都下の日野市にありますが、朝霞テックもこれとほぼ同様のコンセプトによる遊園地でした。
話はぐっとさかのぼって、私が中学校の卒業を間近に控えた頃のこと、学年の卒業旅行が企画されました。どこに行きたいか希望を取ったところ、最終候補に残ったのが朝霞テックと多摩テックでしたが、結局多摩動物公園とセットにした多摩テックが選ばれてしまいました。その後朝霞テックに行く機会もなく、昭和40年代の後半には廃止になってしまいました。
現在その跡地は本田技研の研究所になっています。昔はまわりが畑と田んぼというのどかな環境でしたが、武蔵野線開通・北朝霞駅や朝霞台駅開業以後、1980年代に入り急速に宅地化され、旧朝霞テック跡周辺には高層マンションが増えつつあります。ネット上でも幻の遊園地として時折り話題になっているようですが、私もようやく重い腰を上げて調べてきました。といっても新しい情報や発見があるわけもないのですが。
●朝霞テックの歴史
朝霞テックは先に述べましたように、本田技研工業の関連会社である株式会社ホンダランド(現・鈴鹿サーキットランド、創業時はホンダテクニランド)が経営していたゴーカート主体の遊園地です。ホンダランドは昭和36年の創業といいますから、当然朝霞テックの開業もそれ以降でしょう。昭和36年ごろというと、オートバイで暴走するいわゆる「カミナリ族」(今の暴走族と似たようなもの)が大きな社会問題になっていました。当時、本田技研は四輪に進出する前で、オートバイは同社のメイン商品だったわけですが、それがそのような社会問題を引き起こしていることで、交通安全教育の必要性を痛感したのでしょう。次世代の顧客である少年少女に楽しみながら交通のルールを会得してもらおう、こういったコンセプトで開業したのが多摩テックであり、朝霞テックだったのです。さすがに世界の本田技研、社会意識の高さがうかがえます。
さて、私は朝霞テックには行き損ねてしまいましたが、かみさんは子供の頃何回か遊びに行ったようです。下の写真は1966年7月25日、町内の子供会で出かけたときの記念写真です。おそらくこの頃が朝霞テックの全盛期だったのではないでしょうか。その後、この敷地は本田技研の研究所となり遊園施設は閉鎖されますが、正式な閉園時期は不明です。先日(2003年4月29日)に見てきた朝霞市立博物館で開催されていた「朝霞と鉄道」展に1971年春に朝霞テックで開催されたイベント「ファミリージャンボリー」のチラシが展示されていました。この頃はまだ営業していたようです。武蔵野線北朝霞駅開業を伝える朝霞市の広報「広報あさか」117号1973年5月10日号(朝霞市立図書館蔵)には「溝沼・朝霞テック方面」からの新駅への交通案内が紹介されているので、この時もまだ閉園していなかったものと思われます。ただし、朝霞テックは閉園後、プールのみが一般にも公開されていたらしいので、遊園地としての閉園とプールの閉園とで時期にずれがあった可能性が大です。いずれにしても1970年代前半から中ごろにかけての時期に閉園したと考えてよいでしょう。当時の朝霞市の広報や議会の記録などを調べてみましたが、朝霞テックの閉園について書かれているものは見当たりませんでした。
かつての朝霞テック園内
1966年7月25日撮影。
(プライバシー保護のため顔はぼかしてあります)
●朝霞テックの遊具
本田技研の経営ということで、当然ながらゴーカート系の乗り物が多かったようです。体育館などもあって、地域の催し物(書初め会や、交通安全講習会のようなもの)にも利用されていました。この体育館は今も残っていて社員の厚生施設として使われているようです。かみさんの子供会の記念写真のバックに写っているのはサイクルモノレールのコースだそうです。園内はかなり樹木も多かったとのことですが、それは今もうかがえます。台地を侵食した谷を利用している点は練馬区の兎月園と立地条件が似ています。
●朝霞テック現状
現在は本田技研の朝霞研究所となっており、研究所という性格から警備は厳重であり、中をおいそれとのぞく雰囲気ではありません。というわけで、現状がどうなっているのかはわかりません。谷間の部分や黒目川沿いの低地に面した斜面は木々がうっそうと茂っており、都市化が進む周辺一帯に貴重な緑を残しています。こうした木々の中にひょっとしてゴーカートコースの残骸が残っていなくもないかも…。
詳しくは地図と写真でたどって見ましょう。
まずは新旧地形図の対比です。
A.1968年末の2.5万分の1地形図に見る朝霞テック周辺
朝霞台駅はもちろん武蔵野線はまだ工事も始まっていない。ゴーカートコースと思われるものが地図にも描かれている。園内には池や森が広がっていたことがわかる。黒目川沿いの低地には水田が広がっていたが、これも1970年代に埋められふつうの畑や果樹園、そして廃材置き場などに変わる。テック西側を南北に走る県道の西側(地図の下原地区一帯)は当時すでに住宅地が広がっていたが、テックの北は東上線まで一面の畑が広がっていた。この後、武蔵野線開業に向けて一帯は区画整理事業が始まり、道路網も一変する。
B.1998年修正測量による左地図と同じ部分の地図
現在はさらに宅地化が進んでいる。本田技研研究所の南西隣の富士写真フィルム研究所南にあったゴルフ練習場もマンションに姿を変えている。朝霞台駅周辺もこの数年ですっかり高層化が進んで、乗降客数も池袋に次いで東上線第2位を誇るようになった。武蔵野線開業時の一面の原っぱ風景など、想像するのも困難である。黒目川沿いの低地だけは市街化調整区域なのでまだ農地が広がっているが、ここにも学校や市民プール、駐車場などが広がり緑が失われつつある。研究所敷地内にはいまだにテック時代そのままの森林が残されているのが貴重である。
●朝霞テック跡写真探索
現状の本田技研朝霞研究所は、旧朝霞テックの敷地をそのまま使用しています。現在正門のあるところが、かつての入場口でした。黒目川に面する台地を敷地としていましたが、左の地図A地点のあたりから台地を浸食している谷によって東西にほぼ二分された形となっています。研究所という性格上、敷地は高い塀、鉄条網の防護柵、生け垣などで厳重に目隠しが施されているので、中をうかがうことはできません。皆さんも好奇心に駆られて中をのぞき込んだりしないように。黒目川沿いの高台からの眺めは格別です。北東方向には黒目川橋梁を渡る東上線が見渡せます。(2003年4月29日調査)
写真1 写真2
正門から研究所内をのぞむ。桜並木は朝霞テック時代以来のものという。 かつて朝霞テック内を二分していた谷の様子がよくわかる。
写真3 写真4
体育館北側の敷地に接する道路と塀。高いコンクリート塀と生け垣によって仕切られている。 体育館の建物。現在でも社員の体育館として使われている。ちょっとアメリカ風の建物です。
写真5 写真6
旧朝霞テックの敷地に接するマンション付近から眺めた黒目川低地を突っ切る東上線築堤を望む。 台地と黒目川沿いの低地を区切る斜面も今はマンションの敷地となってしまった。壁のようにそそり立つマンション群。
写真7
旧朝霞テック跡の敷地だった雑木林。現在も本田技研研究所の敷地として、この一角のみ緑が保存されている。手前はかつては田圃だったが埋め立てられ駐車場となっている。
写真8 写真9
研究所北側の朝霞第5小学校との間の小道。左の塀の向こう側が研究所の敷地となっている。 東上線の黒目川橋梁方向から旧朝霞テックを望む。線路の向こう遠くに見える緑の森一帯が朝霞テックの跡地である。
使用地形図:
A:昭和44年5月30日発行、2.5万分の1地形図「志木」:昭和41年改測、昭和43年修正測量、昭和42年12月撮影空中写真を使用、昭和43年12月現地調査 (c)国土地理院
B:平成13年5月1日発行、2.5万分の1地形図「志木」:昭和51年改測、平成10年修正測量、平成9年5月撮影の空中写真を使用、平成10年7月現地調査、平成13年部分修正測量 (c)国土地理院
※このページに使用した地形図はすべて国土地理院が著作権を保有しています。
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