東上沿線コラム&情報 第14号
No.22 東上沿線自治体変遷・その1~池袋・霞ヶ関間の自治体(2002/3/30 記)
最近、東上沿線でも市町村合併の話題で盛り上がっているようですね。さいたま市誕生で県民の関心も高まっているようですし、際限のない組み合わせ論や、あんなところと一緒になるのは嫌だといった地域感情論なども混ざり合って、話のネタとしては面白いようですが、いざ実行するとなると、利害問題などさまざまな問題によって難行するのも目に見えています。
この議論に役立つかどうかは保障の限りではありませんが、ここで過去の沿線自治体の合併を振り返ってみましょう。例によって横長で見にくいので恐縮ですが東上沿線自治体変遷図を作ってみましたので、それを見ながら読んで下さい。今回は池袋から霞ヶ関までの沿線自治体についてです。鶴ヶ島から寄居と越生線沿線自治体については次回に。
■近代的町村制度の確立
さて、いきなり時代を明治維新まで戻します。1868年に徳川幕府が崩壊し、それまでの幕藩体制から近代的な地方自治制度に変身するまでには多少の時間が必要で、それまでの国郡・町村制から府県・町村制へ転換するのに20年以上かかりました。武蔵国は紆余曲折を経て明治9年に埼玉県・東京府・神奈川県東部に再編されます。その後、明治22年(1888)には江戸時代以来の町・村が合併して、現在の市町村の原型になる自治体が勢揃いしました。江戸時代の村は現在の市町村のほぼ大字に相当します。ちなみに明治9年時点の埼玉県域の町村(市はまだなかった)数は1896、それが明治22年の町村合併で409町村となりました。いっきょに1/4以下になったのです。このときもさまざまな利害のからみの中で合併反対運動も起こりましたが、今とは比べものにならない明治政府の権力の強さで、町村合併は実行されました。明治維新以来の地方制度改革はこの明治22年の町村大合併で一段落したわけです。
■郡制の変更と、埼玉から東京に脱出?した村
明治22年の町村合併の7年後の明治29年に、小規模な郡が統合されます。今回の図で取り上げた東上沿線南部でいうと新座郡が北足立郡(現在の川口市から吹上町に至る中山道・高崎線沿いの郡)からに吸収され、また高麗郡が入間郡に吸収されます。
荒川で隔てられた北足立郡による新座郡の合併は、地理的に不自然さを感じさせますね。新座郡役所が北足立郡の浦和町に置かれていた関係で北足立郡に併合されたのですが、入間郡に統合されたほうが地理的にはずっと自然な気がします。東上線開通以前とはいえ、新河岸舟運や川越街道などによって、現在の東上沿線地域圏に相当する地域経済圏は、すでに江戸時代に成立していたわけですから。
この年、埼玉県新座郡の榑橋(くれはし)村と、新座郡新倉村の大字長久保が東京府に移って、北豊島郡石神井村の大字上土支田(かみどしだ)とともにあらたに東京府に大泉村が成立します。練馬区大泉学園町北部や西大泉町北部は明治24年までは埼玉県だったわけです。
■拡がる大東京
明治22年時点で現在の東上沿線に該当する豊島・板橋・練馬各区に該当する地域で町制をしいていたのは巣鴨町と板橋町のみでした。いずれも中山道の街道に発達した町並みです。この2町以外はいずれも農村地帯でした。川越街道にも上板橋村や下練馬村には町場が形成されてはいましたが町制をしくには至っていません。
さて大正時代にはいると東京都市圏が膨張してきて、都心に近い巣鴨村(池袋駅も巣鴨村に属する)が大正7年、高田村が大正9年、長崎村が大正15年にそれぞれ町に昇格します。巣鴨はすでに中山道沿いの巣鴨町があったので、それと区別するために西巣鴨町という名前になります。東上鉄道が開通したのは大正3年ですから、当時の池袋駅は「村」にあったわけです。
昭和にはいると関東大震災後膨張を続ける東京市の波はついに周辺の町村を飲み込みます。昭和7年、東上沿線の東京府内の町村も大東京都市圏に飲み込まれ、東京市に併合され、豊島区と板橋区が成立します。東京市はそれまでの15区に加え郊外20区が加わり35区となります。ここで現在の東京23区に該当する範囲がほぼ確定します。
■平穏な戦前の埼玉県な自治体
埼玉県は明治22年以後、大正11年に川越町と仙波村が合併して埼玉県初めての市である川越市が成立し、昭和7年に膝折村が朝霞町に昇格・名称変更した以外は、それほどの変更はありません。東上線の開通によって人口は増え続けていますが、まだ年10%を越えることはありません。激変を迎えるのは戦時中から戦後の高度成長時代にかけてからです。
■戦時合併
明治22年の町村合併以後、自治体の合併はほとんどありませんでしたが、昭和16年の太平洋戦争勃発による国家方針で、市町村の合併が促進されることになります。といっても規模はそれほどではなく、東上沿線では3例のみです。このうち新倉村と白子村の合併でできた大和町(現・和光市)と大田村と日東村が合併してできた大東村(現・川越市内)は戦後もそのまま存続しますが、ややこしかったのが志町(志ではない)です。
志紀町は志木町、宗岡村、内間木村、水谷村が合併して成立しましたが、かなりのいざこざ(暴力事件もあったとのこと)の末に国家方針ということで強制的に合併に至ったようです。とくに水谷村(水子と針ヶ谷の合成地名)は入間郡に属し、南畑村や鶴瀬村との結びつきが強かった面もあり、村内は合併をめぐり紛争状態になってしまいました。敗戦後、国家の強制がはずれると再び分離し、戦前と同じ志木町、宗岡村、内間木村、水谷村になり、志紀町はわずか4年で消滅してしまいました。水谷村は北足立郡から入間郡に逆戻りしたわけです。
東京方面では、戦時中に東京市が廃止され、東京府が東京都となり区は都の直轄となりました。戦争が終わった昭和22年3月には都心部の区で大合併があり、35区が22区に統合され、それぞれの区は公選による区長と区議会が置かれ、各区が独立した自治体となります。その5か月後の8月に22区1の面積を誇っていた板橋区の南半分が独立し練馬区が誕生。現在の23区制が成立したのです。
■昭和30年、明治以来の市町村大合併
昭和28年に町村合併促進法が制定され、それに基づいて昭和30年を中心に、明治22年以来の大規模な市町村合併が全国で繰り広げられました。埼玉県で川越以南の東上沿線に23あった市町村は9市町村に統合されます。川越市などは周辺の9村を吸収してしまいました。
富士見村(現・富士見市)の合併はモメにモメたようです。当初は鶴瀬・南畑・大井・三芳・柳瀬の5村合併が県から提案されましたが、役場をどこに置くか(合併問題のとき新自治体名の問題とともに紛争のネタになる)で紛糾し白紙に戻され、大井・三芳はどことも合併せず、柳瀬は所沢市と合併。戦時強制合併後、分離独立していた水谷村がすったもんだのあげく鶴瀬・南畑とともに合併に加わり、ここに富士見村が成立したわけです。
水谷村とともに旧志紀町からの分離組である内間木村は朝霞町に合併しました。こうして現在に至る市町村が成立したわけです。
市町村の合併は一段落しましたが、東上沿線の埼玉県側の人口が急増したのは昭和30年以降です。これ以後は合併よりも昇格ラッシュになります。昭和31年時点で1市4町4村だったのが、現在では7市2町0村にと変化しました。
明治22年以降、紆余曲折を経て現在に至っているわけですが、こうしてみると三芳・大井・上福岡の3自治体が、どの市町村とも合併することなく独立?を守り通したことが目に付きます。
現在、合併特例法が出され平成15年3月までに合併すると財政面での優遇措置があるということで東上沿線でもいろんな案が出されているようです。いずれにしても、合併問題がもめるのは過去の例からいっても必定です。もめるのがいやならば、合併しないのが一番ですが、それが最良の選択とは必ずしもいえないと思います。江戸時代のまま変わることなく、埼玉県内に1900もの自治体があったとしたらゾッとしますからね。
■参考文献
角川日本地名大辞典 11「埼玉県」(昭和55年7月発行)
角川日本地名大辞典 12「東京都」(昭和53年10月発行)
その他、各区市町村史・誌を参考にしました。
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