東上沿線コラム&情報 第9号
No.14 上福岡取材メモ (2001/3/11記)
以下は2月10日(土)に上福岡市内の取材をしたときのメモです。
車窓からは毎日のように見ていますが、上福岡駅に降り立つのは何年ぶりでしょうか。まず、北口の階段を下りて東上線の記念碑を探してみました。それはバスの回転台の奥にぽつんと忘れられたように立っていました。そこは、勝手に立ち入ることはできない場所のようなので、フェンス越しに撮影しました。そのため碑文の詳細を確かめることはできませんでした。こうした石碑は現代では邪魔者扱いにされているのではないでしょうか。昨年、さるグループで小田急の生田駅周辺を歩いたとき、生田駅の開業記念碑を見学しましたが、これも駅の駐車場の片隅、人の立ち入るのがむずかしい場所に、打ち捨てられるように立っていました。鶴瀬駅の記念碑も線路脇、駐輪場の壁に向かって立っていますが、ここなどは一般人が立ち入ることは絶対不可能な場所です。車窓からは石碑の背中だけが見えますが。
バスターミナル(というほどのこともないのだが)を過ぎて、東上線の踏切のところで左折して市役所通りを上野台団地方面に向かう。踏切の角付近は、古い民家が何軒か忘れられたように残っています。中には開業間もない頃に建ったのではと思える民家もありましたが、かなりの家が空き家のように荒れ果てています。どうやら再開発を待っているように見受けられました。
市役所通りを北上して上野台団地に到達。最近の団地にはない、ゆったりとした建物配置ですが、さすがに建物全体が古くなってきており、団地内もなんとなく活気が見られないのが気になりました。しばらく歩くと給水塔が見えてきました。給水塔北側の道路を挟んだ駐車場には、かつての火工廠のコンクリート壁がひっそりと残っていました。(「東上線・車窓風景移り変わり」第17号を参照)
給水塔と壁の写真を撮影し、駅に戻る道すがら、団地の中を通り抜けましたが、土曜日の午後というのに人通りがほとんどありません。空き家も目立ちます。霞ヶ丘団地のような再開発計画でもあるのでしょうか。修理さえすれば、現状の建物でもけっこう使えるのではないかと思うのですが。なんといっても緑が多いし、スペースもゆったりしています。駐車スペースがもう少し充実していれば、2階建てのテラスハウスなどは快適そうですが。
上野台団地を通り抜けて、駅前へ抜ける新道を歩きました。この道も開通して25年前後になると思いますが、肝心の駅前部分が建物でふさがれたようになっています。したがって上福岡駅北口は南口と違って駅前広場というほどのスペースがいまだにありません。駅前再開発はどこでもそうですが、権利が錯綜していて難航するのが常で、川越駅東口も整備に30年以上かかったのではないでしょうか。
さて上福岡の駅といえば、東上線初の橋上駅。昭和30年代半ばにすでに橋上駅化していました。蒲鉾形の屋根は今でもはっきり覚えています。橋上の部分で屋根が付いているのは、ホーム階段と駅舎部分だけで、階段や南北を結ぶ自由通路部分は屋根が無く露出したままでした。今でも骨格の部分はオリジナルの構造を生かしていると思いますが、その後のあいつぐ改築で、オリジナルの駅舎の姿はどこにも残っていません。
最後に尾籠な話で恐縮ですが、私はここで便意を催し、構内に入ってトイレを探しました。どこにあるかと思って探すと、いちばん端、ふじみ野駅寄りのホームから階段を下りたところにありました。用を済まして立ち上がると目の前が窓です。窓の外にはふじみ野方面へ伸びる線路が一直線に見渡せます。いましも、ふじみ野方面から急行電車がスピードを上げて、トイレに向けて走ってくるのが見えました。もし用便中に急行電車が脱線してトイレに突っ込んできたら、あわれ私は世にもみじめな姿で昇天することになるなあ、とバカなことを考えつつ、カメラをかまえました。トイレの外から中を撮影すると犯罪だが、中から外を撮影するぶんにはかまわぬだろうと、シャッターを押しました。しかしさすがに運転席に向かってトイレの窓からレンズを向ける勇気はなかったので、真っ正面からはとらえていません。しかし皆さん、やっぱりトイレの中でシャッターを押すというのは誤解のもとですから、くれぐれもまねしないように。
上野台団地内にて
2階建てのテラスハウスと5階建ての中層住宅からなる。緑の多いゆったりとした環境である。
上福岡駅某所からふじみ野方面を見る
いい年をしてこんなことをしているのは、冷静に考えると恥ずかしいものである。
No.15 川越市内の丸の内線保存車両 (2001/3/11 記)
掲示板のほうでも少し話題になりました、川越市内某所の地下鉄丸の内線保存車両について、ちょっとご報告まで。
私の少年時代、昭和30年代前半といえば、東京の地下鉄は銀座線と丸の内線のみ。その頃の地下鉄車両で思い出すのは、地味な銀座線ではなく、赤い車体に白ライン、そして銀のねじり模様の入った鮮やかな丸の内線車両でした。今、考えてもこれ以上のデザインの車両があるとは思えません。この車両もすでに姿を消し、現在は丸の内線車両も無個性なステンレス車両になってしまいました。
昨年、暮れに川越の知り合いから、「川越市内にボロボロになった丸の内線の車両が放置されている」という情報を教えてもらいました。いつでも見に行けると、そのままにしておいたところ年が明けて、その人からメールで当該車両の写真を送ってもらいました。そして、そのあまりのすさまじさに、これは見に行かなくてはと思った矢先、こちらの掲示板でも話題になったわけです。
というわけで、ようやく重い腰を上げて見に行って撮ったのが下の右の写真です。左側は最初に情報を教えてくれたイトーさんが送ってくれた写真で、今年の1月に撮影したとのことです。なんだか、空襲かなにかで焼け焦げてしまったようですね。塗装が剥げて、その間からしみこんだ雨水で下地の鉄が錆び、さらにその錆のために塗装面が剥離してしまったという感じです。じょうぶそうに見える電車も、手入れをしないとこのありさまです。
いろいろな事情があって、このようなことになってしまったのでしょうが、名車両のいたましい末路というほかはありません。
2001年1月撮影(イトーさん提供) 2001年3月8日撮影
なお、保存(?)されている丸の内線車両のデータにつきまして、掲示板にアップされたKRさんの発言をここに再掲載させていただきます。KRさんには再掲載のご許可をいただき、あらためて御礼申し上げます。なおKRさんからの追加情報によりますと、この車両は当初事務所として使用される予定だったとのことです。
営団丸ノ内線の444形車両は、1956(昭和31)年6月に「汽車製造」で製造され、1両の車両の両側に運転室がある両運転台の車両として登場しました。そして6両編成化されてからは中間車としても活躍し、1990年2月7日に廃車となりました。
1987年頃の編成      荻窪方 777+444+611+778+304+612 池袋方
444号車廃車後の編成   荻窪方 777+453+611+778+304+612 池袋方
その後444形は、川越市石原町のスクラップ業者の敷地内に飾られることになり、ご主人の道楽で購入されたそうです。そして1990年3月4・5日の2日間かけて、営団中野工場からトレーラーで搬入されたとのことでした。搬入後は10日がかりで洗剤で車体を洗ったようで、晴れた日は屋根上が焼けるように熱く、ひじょうに辛いものがあったそうです。その成果もあって車体の外板といい窓ガラスといい、現役時代以上にピカピカの状態だったようです。
しかし、現在は見るも無惨な状態とのことですので、貴重な車両なだけに残念であります。
参考資料:『鉄道ファン』1990年10月号掲載の小林英明氏の投稿記事
    :『私鉄車両編成表』1987年版
    :『私鉄車両編成表』1990年版より
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