東上沿線 車窓風景移り変わり 第25号
No.28 回る街、動く街~東松山(2002/1/2 記)
市街地は時代によって動くものということは、この10年くらい顕著になった地方都市における旧市街地の急速な空洞化の進行と、それに反比例する形で展開した郊外のロードサイド店の繁栄という現象によくあらわれています。
もちろん街が移動するというのは最近の現象というわけではなく、昔からあったわけで、鉄道、とくに駅の設置というのもその大きな要因になったわけです。というわけで、今回は私が高校時代お世話になった東松山を例に、その現象を具体的に追ってみましょう。
「東松山」というのは、昭和29年に市制施行したとき愛媛の松山市と区別するために、それまでの町名・松山の頭に東を付けて市名としたわけです。その時に駅名も「武州松山」から「東松山」に改められています。ここから先は、「松山」「東松山」がチャンポンに出てきますがいずれも現在の東松山のことです。
松山の町の根源をたずねると、戦国時代の松山城にたどりつきます。今の東松山駅から鳥居をくぐってまっすぐ東に進み、坂を下って国道をわたると、鴻巣へ向かう県道に行き当たります。その県道を右折し、市ノ川を渡る橋の向こう真正面に見える小山が、戦国時代、小田原北条氏・上杉謙信・武田信玄が奪い合った戦国の名城・松山城の跡です。そして松山の地名のもとになったのがこの松山城です。おそらく城のあった山が松山と呼ばれていたのでしょう。地名としての松山のルーツは、東松山市ではなく吉見町にあったというわけですね。
地図[1]
A: 松山本郷(本町1丁目交差点を中心とする地域)と松山新宿。
新宿は本郷の東側、現在の国道407号バイパス寄りにあった。
B: 松山上町・下町地区。本町1丁目交差点北側が上町、南側が下町。
江戸時代から、大正12年の東上線開通前まで松山町の中心街だった。
C: 本町1丁目交差点から西側、材木町から一番街。
昭和に入ってから栄えだし、昭和40年代前半まで松山の中心的な商店街だった。
D: 駅前地区:駅前通りとぼたん通りを中心とする商店街。戦後に商店街としての開発が進んだ。
とくに昭和40年代後半から大型店が進出し、松山の中心的商業地区を形成。
E: 国道407号バイパス沿いのロードサイド店街。昭和50年代に入って発展。
この地図の範囲外でも、最近乳児誘拐事件で有名になった旧日本シルク工場跡にできたショッピングセンターなどの自家用車利用を前提とした商業地区が郊外各所に出現している。
さて松山の町は、この松山城の城下町としてスタートしました。後北条氏(1590年以前)の時代には松山本郷という地名が記録にあらわれ、町人衆が活動し城下町として栄えていたことがうかがわれます。この松山本郷は、松山城とは市ノ川をはさんだ対岸、比企郡側(当時、松山城を含む吉見町一帯は比企郡ではなく横見郡)にありました。現在の本町1丁目交差点あたりから松本町1丁目にあたります。松山本郷に対して永禄年間に新らしい町場が開かれます。これが松山新宿で、現在の松本町2丁目にあたります。これが現在の東松山市街地の基礎になったわけです。(地図[1]-A地区)
江戸時代初期に、松山城が廃城となり、まず城に近い新宿がすたれはじめます。この一帯は現在は町場というより農村といった面影が強くなっています。町の中心は松山本郷となります。鴻巣方面から小川にぬける道、川越方面から熊谷へ抜ける道が交差するあたり、現在の本町1丁目交差点が中心地だったようです。(地図[1]-B地区)
交差点にはかつて高札場があり、「札の辻」と呼ばれていました。札の辻より北側が上町、南側が下町。それぞれ上沼・下沼あたりが町場と在方(農村)の境となっていました。いまでもこの本町1丁目交差点付近には川越の蔵造りに似た建物が何軒か残っています。江戸時代から東上線が開通する頃までは松山の市街地はこの松山本郷が中心でした。松山本郷の南西には、江戸時代から近郷のみならず江戸市中からも参詣者が絶えなかった、箭弓稲荷神社とその門前町がありました。
本町1丁目交差点を材木町の方向から見る 本町2丁目に残る蔵造りの商家
かつて札の辻といわれ高札場があった。昭和初期まで松山の中心地を成していた。交差点には空き家となったクラシックなビルや駐車場などになっていて、寂れた雰囲気が漂う。ただし、国道407号(旧道)の交通量は、バイパスが開通後も相変わらず激しいようだ。 川越の蔵造りにも劣らない堂々としたもの。数は以前よりもだいぶ少なくなってしまった。
さて大正12年10月に東上線の武州松山駅が箭弓稲荷神社に近い地点に開業しました。これが松山本郷を中心街とする松山の町が移動するきっかけとなりました。まず本町中心だった商店街が駅に引きずられるように、材木町・一番街方面(地図[1]-C地区)に移動してきます。また開業した武州松山駅前付近にもしだいに商店が建ち始めます。しかし駅前と市街地の間には若干の隙間があり、まだ畑なども残っていたようです。
これも戦後になると家が建て込んできて、駅前と材木町・本町方面が一続きの市街地となってきます。私が高校に通っていた頃は駅前もそれなりに賑やかでしたが、材木町から一番街の商店街もまだ賑やかでした。さすがに本町はさびれ始めていましたが。一番街の書店・比企文化社(現在は郊外に移転しあとかたもない)あたりがいちばん賑やかだったような気がします。
一番街に近い郵便局や聖ルカ教会が引っ越して、跡地にまるひろができたのは昭和45年だったでしょうか。私が高校を卒業したのがこの年の3月ですが、卒業間近の頃はまるひろの工事が最盛期でした。さらに昭和も終わり頃、50年代になると駅前(地図[1]-D地区)が急激に栄えだしました。大型店が駅前に出店してきます。材木町・一番街の商店街が急速に衰退するのもこのころからです。 駅前の大鳥居からまっすぐ東に向かう道は、駅前通りとはいえ、昭和40年代までなぜかさびれたままでした。商店は鳥居付近以外はほとんどありませんでしたし、国道254号(旧道の方)を越すと、家はあまり無く、坂を下りると一面の田んぼでした。国道407号線バイパスはできていましたが、田んぼの中の一本道という感じでした。商業地域が駅前に重心を移してくると、この寂しかった駅前通もしだいに活気を帯びてきます。御茶山町・六軒町あたりの住宅街が発展したのもこの地域の発展に影響しているでしょう。この新しい住宅地のあった地域は昭和40年代は一面の水田で、水はけのあまりよくない地域は底なし沼のようなところもあったようです。私の友人に地元の農家出身の人間がいて、「あのあたりは体が沈んじまうんで、舟で田植えしたもんだ」と語っていました。案の定、宅地化してもしばらく地盤沈下がひどくて問題になり新聞を賑わしたことがあります。話が横道にそれました。
材木町通り ぼたん通り商店街
昭和40年代までは商店が軒を連ねていたが、いまや凋落の一途をたどっている。写真のように商店街から住宅地に変容したところもある。 駅前の大鳥居をくぐってすぐに左折するとぼたん通り商店街。この商店街は昔とあまり変わっていないようだ。
さて、駅前を中心とする繁華街ですが、どうも発展の度合いが足踏みというか停滞しているようです。そしてまったく新しい形の商店街が展開してきました。いわゆるロードサイド店の群です。それまで電車やバスで松山や川越の町に出てきた買い物客が自家用車で移動するようになり、広い駐車場と広大な店舗を持った郊外店に客が集まるようになったわけです。松山も市街地を迂回するバイパス沿いにそうしたロードサイド店が集中し始めます。典型的に見られるのが国道407号線バイパスです。東松山駅から鳥居をくぐってまっすぐ東に進みバイパスを右折すると両側にずらりとそういった店がならんでいます。(地図[1]-E地区)近郷近在の人たちは、ここで買い物し飲み食いし、そしてパチンコ・カラオケに興じるわけです。
かつての中心部の商店街はもっぱら市街地に住む人を対象にした商店街となり、かつての比企郡内全域の住民を顧客としていた勢いはなくなってしまいました。材木町から一番街の衰退ぶりは目をおおうばかりで、一部では商店をとりこわし建て売り住宅に立て替えているところもありました。かつての松山新宿の町並みが400年の歳月を経て農地に還ったのと同様の変化が起きつつあるのかも知れません。
さてこうして戦国時代末期以来の松山の町を見てみると、商業地区が本宿・新宿のあった地点からスタートして、東上線の駅に引っぱられるように材木町・一番街へと移動し、駅前に重心が移り、駅前周辺が栄え、さらに国道401号バイパスにみられるようなロードサイド店に移るという動きが読みとれます。今、バイパスに沿ったロードサイド店を見渡せる歩道橋の上に立つと、すぐ間近に松山城跡が見えます。なんのことはない、町は400年かかってまた城の下に戻ってきたといえなくもないのです。
国道407号バイパス沿いのロードサイド店街 松山城趾
このあたり、かつては田んぼの中の1本道だったが、いまやご覧の通りの商店街に生まれ変わった。 歩道橋から東方向にカメラを向けると、国道沿いのDIY店舗ごしに松山城趾が見えた。
地図A
明治21年発行の迅速図にみる松山町。まだ江戸時代の面影が強く残っている。
画面左の松山町と書いてある右にある方形の区画は幕末に築かれた前橋藩の松山陣屋。現在は市役所や第1小学校になっている。
市街地が二つの街道の交差点を中心に発展したことがよくわかる。地図左下にちょっとわかりにくいが箭弓稲荷神社が見える。
地図B
昭和7年発行の5万分の1地形図にみる松山町。東上線開通後9年を経て、駅前周辺に商店が展開しつつある。
まだ町の中心は本町から材木町だが、上の明治17年地図と比べると、市街地が駅に向かって伸びてきているのがわかる。
画面下中央の松山町という注記のうち「町」という字の右側には水田のマークがあるが、その記号の下の横棒が1本多いのに注意。
これは「湿田」をあらわす。この湿田を開発して現在の六軒町などの宅地が開発された。
家を買うときにこうした古い地形図を見て、かつてそこがどのような土地だったのかを調べることも大切である。
使用地形図:
地図A: 明治21年5月22日発行、迅速2万分の1地形図「菅谷」:明治17年測量、(c)国土地理院
明治21年発行、迅速2万分の1地形図「松山町」:明治18年測量、(c)国土地理院
地図B: 昭和7年8月30日発行、1万分の1地形図「熊谷」:明治40年測量、昭和4年修正測図、(c)国土地理院
※このページに使用した地形図はすべて国土地理院が著作権を保有しています。
東上沿線 車窓風景移り変わり 第24号へもどる 東上沿線 車窓風景移り変わり 第26号へすすむ
トップページへもどる
inserted by FC2 system