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No.16
幻の駅(2)
金井窪駅とその周辺(2000/12/27
記) |
●金井窪駅について |
東上線で幻の駅としてもっとも有名なのは、なんといってもこの金井窪駅。すでにいろいろなところで触れられているので、ご存じの方も多いと思われます。下板橋と大山の間にあった駅で、開業は大山駅に遅れること約1か月の昭和6年9月27日に開設、昭和20年4月15日に廃止されました。
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駅のあった場所ですが、下り電車が下板橋駅を出て東上線の留置線を通過し終わったところに踏切があります。金井窪駅はこの踏切と山手通りの陸橋との間にありました。駅舎は踏切に接したところにあったといわれます。この駅の詳しい来歴については「板橋史談・199号」(1999年1月刊)所収の山下徹さんによる論文があり、そこに詳しく述べられております。ときわ台駅近くにある板橋区立図書館に置いてありますので、ぜひお読み下さい。
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金井窪駅の東を通過していた踏切を通る道は、今ではなんの変哲もない町中の小径という感じですが、かつては中山道板橋宿から池袋村、雑司ヶ谷村を経て、清戸道沿いの高田村とを結ぶ道で、江戸時代から明治初期は中山道の裏道として利用された道でもありました。 |
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私も以前(というより、ついこの間まで)勤めていた、神楽坂の勤務先から板橋の凸版印刷へ夜中に急ぎの原稿を届けるときにタクシーを使うと、慣れている運転手は混んでいる山手通りを避けてこの道を飛ばした行ったものです。
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昭和20年4月13日、城北地区一帯は米軍機の空襲を受け、東上沿線もほぼ焼け野原になってしまいました。池袋駅、東武堀之内駅(現・北池袋駅)、中板橋駅は焼け落ち、金井窪駅は駅舎こそ焼け残ったものの、東武堀之内駅とともに営業休止となりました。戦後、昭和26年に東武堀之内は北池袋駅として復活したものの、金井窪駅はそのまま復活することもなく廃止されてしまいました。
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●下板橋駅の移転 |
さて金井窪駅の1駅池袋寄りの下板橋駅は、今の場所とは異なり、現在の東武の配送センターのあたりにありました。金井窪駅からは400mにも満たない距離です。列車速度も遅く、編成の短い当時のこととはいえ400m弱という駅間距離はやはり短かすぎたようで、昭和12年の地形図を見ると下板橋は池袋より踏切の向こう側、すなわち現在位置に移動しています。 |
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下板橋移転の時期については不明ですが、私の手元の地図で見る限りでは昭和7年から昭和11年の間ということまでは追うことができます。昭和10年3月に池袋・上板橋間が複線化されておりますので、そのころにでも移転したのでしょうか。
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戦後、再開することのなかった金井窪駅周辺ですが、旧下板橋駅の跡地には車両基地が設けられ、さらにセメント貨物の積み下ろし施設が同じ敷地内に設けられました。また旧金井窪駅の大山駅寄りの山手通り陸橋をくぐったところには転車台と留置線が設けられました。ここで貨物を牽引するSLの方向転換を行ったのでしょう。これらの施設の作られた時期についての情報は持ち合わせていませんが、昭和10年代から20年代の初期にかけてだろうと思います。掲載の写真は昭和28年の撮影によるものです。転車台がはっきりと写し出されています。
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こうして旧下板橋・金井窪駅周辺は一大車両基地へと転換したわけですが、戦後の高度経済成長期になると蒸気機関車の廃止と電機機関車化、貨物輸送の減少により、電車の留置線以外の施設は次々と廃止され現在に至っております。積み下ろし施設のあった秩父セメントの建物敷地の一部にはスーパーが建ち、転車台のあった一帯は東武鉄道の変電所になっています。
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もはや下板橋の駅が移動したことや金井窪という駅があったことは、かつての戦争の記憶とともに、次第に人々の脳裏から消え去ろうとしています。
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写真1 |
旧金井窪駅周辺の航空写真(昭和28年撮影)もちろんこの時、金井窪駅は廃止されていました。 |
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写真2 |
写真1のうち金井窪駅跡と転車台のある一角を拡大したもの。 |
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◆参考文献 |
東武鉄道100年史 |
板橋史談・199号(1999年1月刊) |
大東京表現地図(1/40000、昭和11年・東京増形社発行) |
陸地測量部発行 2.5万分の1地形図「東京西部」(昭和7年要部修正) |
東京航空写真地図・第2集 (昭和29年、創元社刊) |
板橋区史 通史編 |
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